風呂上がり、グラスに注いだミネラルウォーターを一気に飲み干す。水を飲み込む喉の動きと、濡れた髪が妙に艶っぽくて、阿伏兎はから目を逸らした。
は小さく音を立てて空のグラスをテーブルに置き、頬杖をつく。ふと時計に目をやると、時刻は11時半を回っていた。







   苦 労 人







「阿伏兎ー」
「何だ?」


いつも通りのトーンで阿伏兎の名前を呼ぶ。
阿伏兎は自分も茶を飲もうと、グラスを口へと運びながら耳だけ傾けた。
は無表情のまま続ける。


「セックスしよーよ」


それは、余りにも自然に切り出された。
「ちょっとそこまで散歩に行こう」とか、「暇だからゲームでもしよう」という位に自然な口調。
そんなの一言に、阿伏兎は飲みかけの茶を吹き出した。咽せて、暫しの間まともに話せる状況ではなくなる。
は直ぐに自分の首にかけていたタオルを阿伏兎に差し出す。


「ちょ……大丈夫?」
「い、きなり何言って……んだ、お前さん、は、」


阿伏兎は口元を袖で拭い、受け取ったタオルで自分の吹き出した水を適当に拭きながら言った。


「だって阿伏兎が何もしてこないんだもん」


もう付き合って1年半だよ、わかってる?
阿伏兎の質問には不満気に頬を膨らませる。


「手繋ぐくらいしかしてないじゃん」


親子じゃないんだから、もっと恋人らしいことがしたい

は大体、こんなようなことを言った。
何か言え。と言わんばかりに阿伏兎に視線を送るものだから、阿伏兎は逃げるように先程は吹き出してしまった茶を飲んで、気持ちを落ち着かせた。


それ以上は年の差的に気が引けるんだよ、

阿伏兎は心中で溜め息混じりに呟く。言っても、そんな理由では目の前で眉間にしわを寄せている恋人は満足しない。する訳がない。分かっているから口に出すことはしないが、阿伏兎は阿伏兎なりに悩んでいる。
そんな事情を知らないは言う。


「これでも一応頑張ってるのに」
「頑張るって何を……」
「ボタンなるべく開けたりとか?」


例を挙げて指折数える。
その方法は様々だったが、簡単にできるものを選んでいる所が、めんどくさがりのらしい。


よく風邪を引くくせに、暑い、と言いながら目の前で服のボタンを外す。
特に風呂あがりの濡れた髪だとか、火照った赤い顔のままそういった事をされる。その度に、色々我慢している此方の身にもなって欲しい、と阿伏兎は思っていた。
その状態で棒付きアイスなんて食べ始めたりした日には……の食べ方がやけに官能的で、阿伏兎は目のやり場に困るのだ。

それに、帰ってきた時によく抱きついてくるようになった。おかえりー、なんてにこにこしながら。
帰宅時だけではない。書類整理をしている時も、たまに阿伏兎がに代わって飯を作っている時も、阿伏兎が一人で居て、が特に何もしていない時には、前から、後ろから、横から、抱きついてくる。は抱きつくと擦り寄ってくるので、普通に抱きつかれるよりも作業をするのには邪魔……なのだが、阿伏兎はどうしても可愛いと思ってしまい、多少の文句は言っても、無理に剥がしたりはできないのだ。

これが惚れた弱みっつーヤツかねェ

阿伏兎がそんな事を考えて苦笑を漏らす。


「ねえ、阿伏兎、聞いてる?」


が不機嫌そうに、首を傾けて阿伏兎の顔を覗き込む。
上目使いになっているのに、は気づいていないのか。それともこれすら狙ってやっているのか。


「……聞いてる」

はぁ、
阿伏兎はため息をついてから視線を逸らした。


「阿伏兎、私の事嫌い…?」


珍しく、弱々しい声でそんな事を聞くものだから、思わず空した視線をに戻した。
そして阿伏兎はぎょっと目を見開く。
が瞳を潤ませている。必死に涙をこらえるように、ぐっと下唇を噛んでいた。
阿伏兎はこれまでにない程の焦った。口の中が乾いていくのを感じながら、言葉を紡ぐ。


「お、おい……何も泣く事ねーだろ?」
「だっ、てー……何もしないだけ、なら、まだ我慢……できる、けどっ……阿伏兎吉原とか、行くじゃん……っ」


とうとうは泣き出してしまう。しかしそれでも泣き顔は見られたくないのか、俯き、服の袖口で懸命に涙を拭っている。


「いや、だからあれは仕事で……」


泣き止んでくれないに、阿伏兎は心底困った。
はたから見れば、いい年したおじさんが、20にもなっていない様な子供を泣かせてしまって、オロオロとしている。そんな面白い光景だろう。

阿伏兎は唸りながら考え、やがて覚悟を決めての名前を呼んだ。



「……?」


赤く眼を腫らして、「なぁに?」と言いたげな表情では阿伏兎を見つめる。

その頭を少し撫でる。
が少し落ち着いたところで、阿伏兎はに触れるだけのキスをした。小さなリップ音をたて、唇を離す。


「……これで許せ」
「うん……っ」


阿伏兎が言うと、は顔を綻ばせる。
そして、なんだか照れくさそうに頬を掻く阿伏兎に強く抱きついた。大きな体は、がどんなに強く抱きつこうが、ぴくりともしない。

でかい猫飼ってる気分だ、と苦笑混じりに阿伏兎が言えば、はふざけて猫の鳴き真似をする。
頭を撫でれば嬉しそうに、「もっと、」とねだるように擦り寄った。









*111204


昔書いた物を書き直し。昔に比べたら大分文章かけるようになったなぁ、なんて。人と比べたらまだまだですが。
阿伏兎主は奔放で甘えんぼうでめんどくさがりな我侭にゃんこイメージ。

以下おまけ




__________








ころりん、
の服から転げ落ちたのは目薬。


「……おい、何だこれ」


それを手に取って見た阿伏兎が言う。


「あ、バレた?」
「バレた?じゃねぇよこのすっとこどっこい!」
「いーじゃん、キスぐらい。減るもんじゃないしさー」


怒る阿伏兎といつも通りの


「そういう問題じゃねぇだろ!」
「そんな事じゃ泣かないよ、騙された阿伏兎が悪い」


あははっ、なんて楽しそうに笑うを見ていたら、怒る気も失せてしまう。


「先寝る!おやすみ!」
「……おやすみ」


が寝室に行った後、やられた…と、阿伏兎は考えた。
嘘泣きだったとは言え、年の離れたに手を出した事には代わりないのだ。


「あーあ、やっちまったなァ……」


阿伏兎の苦労は尽きない。




 

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