「あ……あげません!」


の声が辺りに響いた。
それとほぼ同時に、私の腕に抱きつく彼女。
先ほどまでうるさく騒いでいた目の前の女は、両の目を大きく見開き言葉を失っていた。

酷く無様だ。

けれど驚いていたのは何も女だけではない。私もまた、驚いていた。
普段おとなしいが、あんな大声を出したところに直面したのは今回が初めてだったからだ。
は不満気に眉間にしわを寄せ、食い入るような視線を女に向けている。

嗚呼、なんて可愛らしい。

静まり返ったその場から逃げるように、は私の腕を引き歩き出す。
女は私たちを引き留めることも、追いかけてくることもせず、ただポカンと間抜けに口を開いたまま、呆然と立ち尽くしていた。


この角度からではの表情は見えないが、決していい気分ではない筈だ。
彼女の眉間には未だしわが刻まれている事だろう。
その心境を想像すると、どうしようもなく満ち足りた気分になった。自然と口角が上がっていくのがわかる。制御できない。

人通りの少ない道の端で、は漸く足を止めた。
私の方を振り返って、気まずそうに視線を落として口ごもる。



事の始まりは私がとの待ち合わせの場所に、時間よりも幾分か早く着いてしまった所にある。
1人でいる私に声をかけてきたのがあの女だ。
まだ夕方だというのにもうすっかり出来上がっていた。


「お兄さんひとり?」
「私ですか?」
「そうよぉ。 ねえ、これから何処か行かない?」
「いえ、私は人を待っていますので」
「あら、貴方そんなに髪長かったかしら」


見事に此方の話を聞いていない。これだから酔っ払いは。
強すぎる香水と酒臭さが混ざり合って非常に不快。
しかも女と私は面識があるとでもいうような口ぶり。全く身に覚えはないが。

女は私の事も気にせずに、一人で喋っている。
まあ、放って置いても問題はないだろう。


「風さん?」


背後からの聞きなれた声には戸惑いと、不安と、少しばかりの不満が含まれていた。
時計を確認すると、約束の時間の丁度五分前。
彼女が私の待っていた人、説明せずとも女はそれは理解したらしい。

しかしが来てからも、女はその軽い口を閉じる事はなかった。
よくもまあそんなに次から次へと言葉が出てくるものだ。
適当にあしらってさっさとこの場を去ってしまおうか。そう考え、ちらとの方を伺ってみる。
彼女の表情は、来た時と比べて明らかに曇っていた。
嗚呼、このまま様子を見るのも面白そうだ。

もしも私がこの女の誘いに乗ったら、彼女は泣くのだろうか。怒るのだろうか。
それとも今の曇った表情のまま、家路へとつくのだろうか。
その可能性が一番高そうだ。もやもやとした感情を胸の内で燻らせて、もしかすると今夜は眠れないかもしれない。
けれど彼女はきっと、私が謝れば許してしまうのだろう。
そんな事を思い描いていると女が急に声を張り上げた。喧しい。


「この彼は私のよ!」
「……はい?」


言葉の意味を認識するまでに少々タイムラグがあったが、思わず間の抜けた声を出してしまった。
目の前にはかなり上機嫌な女、隣には変わらず憮然とした様子の

そして話は冒頭に戻る。








「……ごめんなさい」


が漸く重い口を開いたかと思えば、第一声は謝罪の言葉。


「何故謝るのですか?」
「あげない、なんて……自分勝手なことを言って」


全く、変な事を気にする子だ。
私は初めて目の当たりにした彼女の一面に、酷く気持ちを昂らせていたと言うのに。
彼女は気が付かない。それでいい。


「……怒ってますか」
「いいえ、ちっとも」


そう、そうだ。

そうしてゆっくり私に溺れるといい。
自分では溺れている事などに気が付かないくらいのスピードで、けれど確実に。


最後まで気が付く事無く、私の元で逝きなさい。






              策士は策と君にれる
                                 (先に溺れたのは私の方)





*120610
甘黒い風さん。
いいえ、ちっともって言わせたかった。ついでに腹の中に黒いものを抱えてもらった。

タイトルはゆま様に付けていただきました!


 

 

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